自分の「男は~であるべき」観は、親の影響を強く受けてると思う
父は、強い人やった。
弓道をやってたから、腕っぷし強かったし。
理系で、弁の立つ人やったから、父に口答えができひんかった。
手先が器用な人やった。
一方、僕は弱いし、親父みたいに数学得意やないし、不器用なので
ところが、高校生ごろから、風向きが変わってくる。
理論整然としているように見えた親父の「理屈」のほころびが見え
当時の僕は記憶力がものすごかったから、親父の主張の矛盾もよく
今まで言い負かされ、黙っているしかなかった僕が猛然と反抗する
親父は数年単位で職を転々としてたけど、僕は鬱でぶっ倒れるまで
そんな自分のプライドが、鬱によって打ち砕かれる。
自分も、父と同じように、弱く、不器用な人間なのだという事実を
物心ついた頃から、なんとなく「母親のことは、自分が守ってあげ
母から聞いたエピソードで、強烈に覚えていることがある。
僕が3歳のころ部屋の中で遊んでいて手を切り、血がダラダラ流れ
親父はハンコ職人をしているから家にいる。
母は父に助けを求めたらしいが、父は仕事に没頭していて、対応し
寒い雪吹きすさぶ中、母は僕を抱いて、病院を探して回ったという
「父は強いけど、自分のことを守ってくれない」という気持ちと、
そんな僕が、母の意に反してJWを離れることを決めたが、自分の
どれだけ母を失望させ、悲しませることになるか、容易に想像がつ
JWを離れたあとの僕は必死やった。
「JWを辞めても幸せになれる」ことを、身をもって証明したい気
だから、身を粉にして働き、正社員の地位を獲得し、結婚して独立
でも、長続きしなかった。
「弱い母を守ってあげる強い長男」であるべきなのに、親不孝で弱
「男は強くあらねばならない。女を守らねばならない」という価値
自分が発達障害であるという事実を知って、ようやく、弱い自分を受容できるようになってきた。
先日、教会で、「コリントの信徒への手紙 一」の講話を聞いてきた。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(I コリント 1:21)
牧師の講話より。
「神を知る方法には、ふつう2つの方法があります。
第一は、自然界を観察して「神は~のような方である」という結論に至る道です。これは科学の世界であり、下から上に登っていく考え方であり、「神は分かる」という知識を前提としています。
第二の方法は、啓示によって「神は~である」と信じる道であり、上から下へと降ってくる考え方です。これは「神は分からない」という無知を前提としています。キリスト教は、後者の考え方をとります。( Joel 注: エホバの証人は前者の考え方をとっている。「エホバ神を知ることは可能であり、知らねばならない」と教えられている)
神はすべての存在を越えています。存在を越えている者を知ることはできません。
なぜなら認識は、存在物に関わることだからです。仮に、神を知ったとしても、それは神自身を知ったのではなく、それに劣る何か、(-私たちの能力で知ることができるもの-)を知ったにすぎないのです。故に、神を知るためには、<分かる(=高慢)という心を捨てて謙虚にならねばなりません。あまりに光が強いと視覚が失われるように、被造物の知識が過剰になると、神に達するための唯一の道である<無知=謙虚>が失われるからです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ 1:18)
「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(ヨハネ 11:27)「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(I コリント 2:11)」
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「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)
十字架という敗北、弱さ、無力さは一見すると愚かさにみえるけれども、神が人間のために愚かになってくださったということが賢いなさり方であり、人間のために弱くなってくださったことにより、安心して人間は神に近づけるのである。それこそ神の強さである。本当に強い者は弱くなることができる。
「神を知ることなどできない!」と断言されたこと、かなりショックだった。
考えてみれば、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいころでしょう」(ローマ 11:33)とあったではないか。
そして、「本当に強い者は弱くなることができる」というフレーズがとても印象深かった。
そりゃそうだ。全知全能の神でいらっしゃるのだから、弱さだって障害だって理解しておられる。
うつの者の気持ちだって、障害を持つ者の嘆きだって、神様はご存じではないか。
十字架は、「弱い神」のシンボルであるために、JWにとっては頼りにならへんものかもしれないが、僕にとっては大いに勇気づけられる。感謝である。