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2009年2月一覧

近況

25(水)夕方から、広島へ出張していました。
夜間に作業を行い、終わったのが木曜の朝10時ごろ。
冷たい雨がしとしと降っていました。。。
夜勤明けでとにかく眠くて、広島駅に着くと岡山行き快速電車に乗り、そのまま熟睡・・・。
2時間以上ぐっすりでした。
昼2時ごろに岡山へ到着。
せっかく岡山に来たからと、倉敷めぐみキリスト教会を訪ね、高山牧師とお会いしてきました。
http://kmcc.sakura.ne.jp/
http://ameblo.jp/taka-chaya/
高山先生は、エホバの証人・統一教会・摂理など様々なカルトからの救出を多数手がけておられる
有名な牧師さんです。
急な訪問にもかかわらず、快く迎えてくださいました。
短い時間でしたが、お話させていただくことができました。
その後、ネットカフェで少し仮眠を取った後、マイミクさんと合流し、プチオフをしました。
2年ぶりの再会でした。元気そうな顔を見られて、とても嬉しかったです。
23時ごろ帰宅。
けさも11時まで爆睡してました。
・・・と、ここまでがここ数日の近況です。
明日も夜間作業のため徳島へ出張します。
来週は福井、再来週は三重・・・と、来月下旬まで出張が続きます。


遠くの親戚より近くの他人

孤独は喫煙や肥満と同じくらい人体に悪影響を及ぼす
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080218_bad_influence_for_loneliness/
孤独は、心も体も病ませます。
共に喜び、共に泣いてくれる友の存在は貴重なものです。
「近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる」-箴言27:10。
「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」-箴言17:17。
主は、ただ遠くから見守っておられるのではありません。
しっかりとそばについていてくださり、守ってくださいます。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
 わたしはあなたを強め、あなたを助け、
 わたしの義の右の手で、あなたを守る」-イザヤ41:10。
主がわたしたちを「友」と呼んでくださっています。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」-ヨハネ15:15。


「カルトとしての創価学会」

カルトとしての創価学会=池田大作/古川 利明
¥1,575
Amazon.co.jp

この本は、同じ作者による三部作の三冊めにあたります。
前著「システムとしての創価学会=公明党」、および「シンジケートとしての創価学会=公明党」を先に読んでおいたほうがよさそうでした・・・
本のタイトルに直接関連する部分は、第5章「カルトとしての創価学会」になります。
(p.250-251より)
【通常のグループとカルトとの違い】
 通常のグループでは、あくまでその活動は生活の一部分でしかなく、社会に向かって開かれている
また、活動の目的がはっきりと提示され、それに伴うリスクも説明される。
内部批判や分派が許される。
脱退の自由がある。
 これに対し、カルトではそこでの活動が生活のすべてを占め、その組織だけで世界が閉じている
真の目的はカネ集め権力の獲得だが、そのことはメンバーには隠され、代わりに「平和」だとか「」、「健康」などといった耳障りのよいキャッチフレーズでカムフラージュする。
内部批判は分派は認められず、「非同調」はすなわち「裏切り」とみなされる。
一度、足を突っ込んでしまうと、脱退は極めて困難である。
【信仰とカルト的狂信の違い】
 信仰においては、個人の自由意思選択が認められ、内部において質問批判が容認されている
また、他の宗教に対しても寛容さがあり、特定の生きた人物が、神のように崇拝されることはない
 これに対して、カルト的狂信では、そのグループが絶対的な真理を持っているとみなされ、質問や批判は拒絶される
メンバーの信仰心が薄れていくとせられ、グループ内のによってのみ行動を取らされる。
それが仮に社会規範や法律に反していても、省みられることはない。
他の信仰は「邪悪」と切り捨てられ、個々のメンバーの信仰心はグループの利益のためにのみ利用する。
リーダーを崇拝する。
【通常のグループのリーダーとカルトのリーダーとの違い】
 通常のグループにおけるリーダーは、その選出過程で民主的な手続きが踏まれ、あくまでグループ内における一つの役割として機能する。
また、メンバーは同時に他のグループの活動に参加することができ、そこではそのリーダーに対する忠誠も容認される。
 これに対し、カルトのリーダーは、グループの全機能を一人で引き受け、その優越性、絶対性を誇る。
リーダーに対する忠誠にリミットはない。
リーダーへの忠誠がすべてを正当化し、そのためには組織内の懲罰弾劾も正当化される。
上記3つのポイントをみても、エホバの証人がカルトであることは明らかです。
他のカルトとの違いといえば、特定のリーダーの代わりに「統治体」というグループが絶対的な権威を握っている、という点でしょうか。


真実の愛と偽りの愛

父は、自分の親から愛を示されずに育ちました。
親から無条件で受け入れてもらえるという経験をしてきませんでした。
そのため、
・自分に対する愛や信頼を保てない
・愛し方が分からない
ようになってしまいました。
父は貧しい家庭を助けようと、小学生のころからアルバイトをしていたそうです。
高校時代には複数のバイトを掛け持ち、それこそ寝る間もないほどだったといいます。
そうして稼いだお金を家に入れることで、父は自分を認めてほしい、と思っていたのだと思います。
しかし、父の期待は裏切られ続けました。
いくら自分が稼いでも、家族のために頑張っても、自分を否定される言葉を浴びせられ続けたのです。
父が自暴自棄になったのも容易に推察できます。
母と結婚した後も、父は全力で仕事をし、家族を養うことで自尊心を保ち、自分を認めてもらおうとしました。
そのため、母と衝突することもたびたびだったといいます。
母は僕にこんな話をしたことがあります。
僕が幼いころに高熱を出し、母は父に病院に連れて行ってほしいといったが聞き入れてもらえず、母は僕を抱いて寒さに震えながら病院に向かった、と。
母にとっては、自分の子の一大事に真っ先に行動してくれるのが親としての当然の愛だと思ったのでしょう。
しかし、父はそんな愛を受けずに育ったのです。
父は仕事をして家族を養うことでしか自分の愛を表せなかったのです。
おそらく、父には納期の迫った仕事があり、どうしても手を離せなかったのでしょう。
そんな父の思いを、母は理解できなかったのでしょう。
母は、自分ひとりで子供を守らなければいけないことに強烈な不安を感じたといいます。
ちょうどそのころ、エホバの証人が伝道に訪れ、母は研究を始めます。
エホバの証人の教えは、母の満たされない思いや不安を払拭するのに十分だったのでしょう。
当初、父は母がエホバの証人と研究するのを認めていたそうです。
ところが、エホバの証人が世俗の仕事を否定することを知り、父は態度を一変させ、猛烈な反対者になります。
当然のことです。父は仕事によって家族への愛を示してきたのです。その仕事を否定されれば、父の存在そのものを否定することに等しかったのです。
しかし、父はのちに研究を始めるようになります。
猛烈な勢いで研究を進めたため、ついに母に追いついてしまったそうです。
そして父と母はバプテスマを受けました。1983年8月のことです。
エホバの証人になった父は転職し、補助開拓奉仕を始めます。
母ものちに正規開拓者になり、夫婦そろって伝道に駆けずり回ります。
僕も小学校入学と同時、1984年4月に伝道者になりました。
傍から見れば熱心な神権家族だったのでしょうが、家庭の中は悲惨でした。
父と母の口論は絶えませんでした。
母は、子育てより伝道に時間を費やし、僕と弟は顧みられない時間が多くなっていきます。
そして両親は僕と弟をエホバの証人の教えにしたがって育てようと必死になり、むちを振るいました。
僕や弟が何をしたいか、何がほしいのか、訴える時間もなければ、両親にはその訴えに耳を傾けるだけの余裕もありませんでした。
ただ、エホバの証人の教えに従うよう強制されるばかりでした。
僕は親の期待にこたえたい、親に従って親に認めてほしいとの思いから、従順な子供でいようとしつづけました。
一方、弟は、親に反発しつづけ、自分のやりたいことを押し通し続けました。
父は奉仕の僕に、そしてのちに長老になり、会衆での仕事量も増えていきます。
世俗の仕事と開拓奉仕と会衆での仕事とに追われる日々が続きます。
父は会衆内で自分の働きを認めてもらえることに、自尊心の充足を感じていたのかもしれません。
一方で母は、会衆内の仕事に没頭して家族を顧みない父を非難しつづけます。
「愛し方を知らない」父は、家族だけでなく会衆内の成員に対しても、押しつけがましくなる傾向が強くなります。
父は会衆内でたびたび摩擦を起こすようになり、ベテランの長老であった主宰監督と対立するようになります。
対立は深刻なものとなり、ついに父は会衆を移ってしまいます。
しかし主宰監督は父の推薦状を書かず、父は移った先の会衆で長老としての任命を受けられませんでした。
父はエホバの証人の組織からも認められず、裏切られたのです。
父の絶望はどれほどのものだっただろうと思います。
そんな父に対し、母は父のやり方が非聖書的であると非難し、父をさらに追い詰めていきました。
ついに父は、会衆からも家族からも離れる決心をします。
断絶を宣言し、母と離婚し、家を出て行きました。
さて、こうして振り返ると、エホバの証人の組織の問題点が浮き彫りになってくると思うのです。
エホバの証人は、集会の出席や伝道への参加、とくに開拓奉仕を行うことが「正しい道」だと説きます。
そうした生活に忙殺され、両親は精神的な余裕を失っていきました。
そして、愛を持って受け入れるのではなく、「非聖書的である」と裁く見方。
正しくないことをしていると、神からも愛されない。
エホバの証人の愛は「条件付きの愛」なのです。
無条件に認められ、愛される経験をしてこなかった父にとって、エホバの証人の「条件付きの愛」がおかしいものだとは思わなかったのかもしれません。
結局、両親は子供に対して、「条件付きの愛」しか示せなくなっていきます。
正しいことをしていれば愛されるが、親への不従順は親からも神からも不興を買い、愛されないことにつながる、という教え。
思春期にはさまざまな葛藤があり、親への反抗を繰り返しながら自我を確立していきます。
しかし、エホバの証人の教えはそういった反抗を自我確立の過程として認めません。
子供は親に反発しながらも、「自分が親に反発するのは悪いことなんだ」と自分を責めるようになります。
子供は自尊心を保つのが難しくなり、精神的に追い詰められていきます。
親も子供も精神的に追い詰められる宗教。
「無条件の愛」ではなく、「条件付きの愛」で絶え間なく追い立てられる宗教。
そんな宗教のどこに、真の愛があるというのでしょうか!
エホバの証人の中に真の愛がないことは明白です。
エホバの証人の組織の中に見られるのは、偽りの愛です。
父が「無条件の愛」を受けることができず、親からも、エホバの証人からも、「条件付きの愛」しか与えられなかったことは、とても不幸なことだったと思うのです。
父が真のキリスト教に出会い、神の恵みと愛によって救われていたなら、父が今ほどに苦しむことはなかっただろうと思えてならないのです。
さて、昨日書いたように、僕は父に対して何ができるのだろうと自問していました。
そうやって自問していることを、父にメールしました。
父から返事が返ってきました。
———-
件名: 理解だけで充分
愛されたことがない者は愛の示し方を知りません。
なんとか愛を示そうとすると、何かを押しつけてしまい相手を傷つけてしまっていることに気づき、落ち込んで、身動きができなくなってしまいます。
基本の愛は、必要とされていることを実感させることではないでしょうか。
決して本心からではないとはいえ家庭を捨てた父親を、捜して会いに来てくれた!
それで充分です。
もし、言わせてもらえるなら、自分の居場所を大切にしてください。
優しさゆえに親や兄弟のために労力を使い・・・燃え尽きた時、自分の居場所がなくなっている、なんてことがないように・・・。
もう一つ、アダルトチルドレンと同様に、愛を正確に示されていない人は、間違ったことを人生の生き甲斐とする傾向があるようです。
アダルトチルドレンの場合に「共依存」と呼ばれますが、虐待を与えている者を助けるのは自分だけ・・・と、関わりつづけることを生き甲斐にしてしまう・・・つまり依存している場合もあるようです。
———-
僕も父も、エホバの証人でなくなってはじめて、「無条件の愛」にたどりついたのです。
無条件に受け入れられ、認められ、必要とされること。
そして僕は、神が、変わらずずっと愛し続けてくださっていることに、ただ感謝するのみです。
僕を見捨てられることなく、恵みのもとへ導いてくださったことを思うとき、涙があふれて止まりません。
でもその涙は、決して悲嘆や苦悩の涙ではありません。
神が大きなみ手をもって僕を包んでくださり、救ってくださったことに対する感謝と感動の涙です。
いつか、両親が、真の愛を知り、救われるよう、これからも祈り続けていきます。


心の傷

すみません・・・昨日のセミナーについて記事にしなくてはと思いつつ、今日は別の話題です。
深い心の傷を負った人を、どうすればいやせるのでしょう。
会うたびにその人は、自分の受けた仕打ちを、苦しみを吐露します。
延々と・・・何時間も・・・際限なくと思えるときさえあります。
いくら吐き出しても吐き出しきれないくらい、深い闇が心の中に広がっているようです。。。
彼は、父から愛情を受けずに育ちました。
彼の父は次男でした。
長男のほうがよい扱いを受け、愛されていることをねたんでいました。
そして自分の長子に対し、「長男」へのねたみの感情をぶつけたのです。
無条件に愛され、認められるべき存在である子供を、不満のはけ口にしたのです。
彼は、「自分は誰からも愛されない」という絶望感にさいなまれ、ボロボロになり、やけくそになっていました。
しかし、そんな彼を必要とする女性が現れました。
ふたりは結婚しました。
彼は、自暴自棄になっていた自分を懸命に生きるよう励まし、家庭としての居場所を与えてくれた妻に対し、言葉では言い尽くせない感謝の気持ちを抱いていました。
しかし時は経ち、妻は事あるごとに夫を責め、追い詰めるようになります。
彼は次第に逃げ場を失い、自分の居場所を失います。
そしてふたりは離婚しました。
彼はすべてを失いました・・・。家庭も、そして自尊心をも。
僕は、彼に対してどう接すればいいのだろうかと思いあぐねています。
彼は、僕の父です。
僕は、父を尊敬し、愛してきました。
愛されずに育ち、愛し方を知らない不器用な父は、不器用にしか子供を愛せませんでした。
僕たち子供はそんな父に傷つけられ、ときには追い詰められました。
幼い頃は、ただ従うしかありませんでした。
でも、大きくなってから、おもいっきり反抗しました。
父にとっては、子供から自分を否定されたかのように感じたのかもしれません。
でも、僕たち子供は、いくら反抗しようとも、心の中では父のことを誇りに思ってきました。
父はいつも自分たちを愛してくれていることを信頼していました。
父が家族を捨てて出ていったとき、その信頼は揺らぎました。
しかし、父と再会して、決して父が冷血漢ではなかったのだと知りました。
父は愛に飢え、傷つき、深い悲しみの中にいることを知りました。
そんな父に、僕は何ができるのでしょう・・・
父は、母とかかわるのはもうこりごりだと思っています。
そして、祖父に対しては、母に対する以上の怒りと憎しみと絶望の気持ちを抱いています。
父の心の闇は、果てしなく深いように思えます。。。


「偽りの楽園~エホバの証人だった自衛官の妻の独白~」

exjw2.net blog by Joel-偽りの楽園
http://www009.upp.so-net.ne.jp/jwtc/shoseki.htm
大野キリスト教会( http://oono.kyokai.org/ )にFAXまたはメールにて注文できます。
http://www.life21.jp/html/order.html
姉妹たちが誰しも遭遇しているような経験や葛藤が綴られています。
「家族生活」の本は悪書だ、というくだり(p.72-76)が興味深かったです。
この本を学んでいくうちに、ある種の変化が自分の中に起こっていることに気づきはじめた。
その書物によって、結局、ものみの塔という組織を理想化し、
組織(の人々)に対する信頼が培われていくのである。
ものみの塔の信仰を学んでいない夫は、野暮ったい。
怠惰な男の一人になりさがっていく。
その結果、それまでもっていた夫への尊敬と信頼が崩れ、
愛せなくなってしまったのである。
○○○なところが夫には欠けている、○○○してくれない夫である。
もう少し○○○であってくれればよいのだが・・・。
本を読めば読むほど、夫に対して不平不満が募ってくる。
その書物は、いわば「家庭生活を嫌なもの」にしてしまう本なのだ。
ちなみに、うちは「神権家族」でしたが、それでも「家族生活」の本の通りにはいきませんでしたね。
それは、他の神権家族にしても同じだと思います。。。
しょせん、「家族生活」に描かれているのは机上の空論ですよね。
しかも、奉仕や集会だけでなく家族研究に会衆の仕事と、たくさんの「神権的活動」に追われている兄弟たちも疲れ果てています。
王国会館では温和な夫を演じているかもしれませんが、家庭の中では「怠惰な男」になっちゃうわけです。
未信者の夫を持つ姉妹たちにあこがれられる「夫である兄弟」たちも、そんなに立派なものじゃないってわけで。
収入も最小限ですから将来の備えなどとても蓄えられませんし。
きちんと稼ぎ、家庭を養ってくれる未信者の夫のほうが、よっぽど感謝されてしかるべきだと思いますよ。


村上密牧師

ジャン・ドウゲン牧師のご紹介で、アッセンブリー京都教会の村上密牧師にお会いしてきました。
http://ag-kyoto.com/
村上牧師は、多数の宗教トラブルを解決に導いておられます。
救出について相談してきましたので内容は書けませんが、とても参考になりました。
村上牧師も指摘されていましたが、エホバの証人の「審理委員会」という仕組みは、密室で
恣意的な判断が下されやすいという点で大いに問題です。
実際、長老の子供であったために「悔い改めた」と認められておとがめなしになったり、
些細な「罪」にもかかわらず排斥になった例が存在します。
しかし、審理に関する書類は完全非公開であり、当事者による証言以外、検証するすべがありません。



ジャン・ドウゲン牧師

昨日、ジャン・ドウゲン牧師にお会いしてきました。
・関西聖書学院の講師をされています。
・エホバの証人の救出は、1990年代後半が特に多かった。毎日のように現役JWから電話がかかってきたそうです。
・レイモンド・フランズと何度か電話で話をされたことがあるとのことでした。
・聖神中央教会からの救出活動に取り組んでこられました。
 http://sky.geocities.jp/sanbi_sunny/E5.htm
 最近は、おもに摂理(鄭明析を教祖とするカルト)からの救出に取り組んでおられるそうです。
エホバの証人はおおまかに、3つのタイプに分かれるように思えるとおっしゃっていました。
「依存型」「充実型」「独立型」。
「依存型」というのは、悩みを抱えていたり寂しさを感じていたりして、エホバの証人に依存しているタイプ。
「充実型」というのは、エホバの証人の活動に充実感や達成感を感じているタイプ。
たくさん研究を取り決めたりしている姉妹たちが当てはまるとのこと。保険の勧誘をやってる人が多かったり。
「独立型」というのは、エホバの証人の教えのある部分には共感しているものの、他の部分においては独自の考えを持っており、組織からは心理的な一定の距離を置いているようなタイプ。
自分でも世間の文献を調べたりして、探求している人。
上記3タイプのうち、救出しやすいのは「充実型」だとおっしゃっていました。
一見、熱心でそんなことなさそうに思えますが、組織の間違いに気づくとパッと転向される場合が多いようです。
「独立型」も自分の考えを持っていますから、一定の根拠を提示され、納得すれば離れられる。
いちばん救出しにくいのが「依存型」だとおっしゃっていました。
僕自身も、僕の身近なところにいるJWも「依存型」が多いように思えます。。。
だから、JWの影響から完全に離脱できるまでに時間がかかるんですよねぇ。
教会について、こうおっしゃっていました。
キリストは自分の持ち物を「忠実で思慮深い奴隷」にゆだねられたが、「奴隷」級は単一の教会組織であるわけがない。特定の教派がすべての人を救える器となれるわけではない。
人にはそれぞれ個性があるように、教会にもそれぞれ一長一短ある。
それは、花にもさまざまなバリエーションがあるのと似ている。
「いま、自分が通っている教会が一番だと思いなさい。もし別の場所に引っ越して別の教会に移ったときは、以前通っていた教会と比べるようなことをせず、いま通っている教会が一番だと思いなさい」と説いている、とのことでした。


日曜礼拝

どうしても土曜の夜は早く寝付けないJoelです。
Googleトラブルの経過を追いかけていたら、いつの間にか一時を過ぎてました…
でも、今朝は早く目が覚めました。7時半。
目覚まし代わりにテレビのオンタイマーをセットしているんですが、日曜の目覚めのBGMはたいてい、戦隊物の「トヤーッ!ウリャーッ!」という雄叫び(^^;)
JW2世の男の子なら、幼い頃に戦隊物で遊ばせてもらえなかった記憶があるかもしれません。
ただ、僕の場合は、親がエホバの証人になる前から、戦隊物は苦手だったんです…。
その点、他の2世よりは葛藤が少なかったのかもしれません。
さて、テレビに映る正義の味方。「相変わらず僕には興味持てないなあ」なんて思いつつ、ふとんから起き上がれない自分と格闘。
なんとか10時前には起き上がり、教会に行く用意をしました。
口語訳聖書と聖歌集も買ってきたし、準備は万端!
…と思って家を出てしばらくして、財布を忘れたことに気づきました。
もうすぐ10時半。引き返しては間に合わない。
「今日は献金できなくてごめんなさい!」と祈りながら教会へ。
さて、2ヶ月ぶりの日曜礼拝です。
賛美歌はまだまだ歌えません。プログラムの紙に来週の歌の番号が載ってたから、練習しておこう。
それから、今日は説教のあとに聖餐式がありました。
パンとぶどう酒(ジュース?)をいただきました。
エホバの証人時代はただ目の前を通り過ぎるだけだった、キリストの体と血を表す表象物にあずかったことに、なんともいえない感慨がありました。
キリストの贖いに対する感謝の念を新たにしたのは言うまでもなく、キリストにさらに近づいた気がしました。
今までは「統治体」に通せんぼされてた気分です。
説教では、ユダの手紙が扱われました。
「放縦」な生活へといざなう分派に気をつけるようにとのことでしたが…いまいちよく分かりませんでした。
エホバの証人は、同じ分派とはいえ、放縦とは対極の、禁欲的で修行僧のような生き方を信者に求めますからね…。
個人的には、せっかく「エホバの証人」の組織の呪縛から自由にされたんだから、放縦に走ることなく、主の恵みに絶えず感謝しなくてはいけないと思いました。
ちなみに、いまは電車で移動中です。
これからジャン・ドウゲン牧師にお会いしてきます。