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2009年1月一覧

「聖書そのものに聖句の意味を決めさせる」

エホバの証人は、「自分たちこそが聖書に忠実である。キリスト教世界は聖書の教えから逸れ、人間の伝統に従っている」と主張しています。
しかし、かつて統治体の一員であり、出版物の執筆もしてきたレイモンド・フランズは、協会の出版物が通説」にとらわれていることを指摘しています。
1988年にものみの塔協会が出版した聖書辞典「聖書に対する洞察」は、1971年にレイモンド・フランズたちが執筆した「聖書理解の助け」にわずかな修正を加えただけのものです。
その「聖書理解の助け」を執筆する過程で悟った点を、レイモンド・フランズはこう述べています。
(「聖書理解の助け」執筆の)仕事を始めたころ、ノア会長が我々に申し渡したことがあり、これが作業の基本路線となった。実は我々はその言葉を誤解していたのだが、これがまさに幸運な誤解だったと言える。ノア会長が言ったのは「単に聖書の言うところを示したいだけであるから、協会の出版物にすべてを捜し求める必要は全然ない」という言葉だった。・・・・・・我々は会長の言葉を曲解し、ものみの塔の出版物が聖書の内容を示すやり方にとらわれず、常に聖書が実際に言っていることを示すように努めねばならないのだと受け取ったのである。その結果、そうでなければできなかったような本ができあがった。(世界各国の支部事務所の者や工場の監督など)250名から送られた原稿の方はほとんど例外なく協会の出版物の「通説」によっていたので、よく調べてみると違いが明らかになってしまうことが多かった
協会副会長のフレッド・フランズは一番の聖書学者として認められていて、私も何度となく質問に行った。すると驚いたことに、聖書の注釈書を見るように言われることが多かった。「アダム・クラークかクックにどう書いてあるか見てみたら」とか、あるいは旧約聖書に関することであれば「ソンチノの注釈を見てみたら」という具合である。
ベテルの図書室にはそういった注釈書が山ほどあった。しかしそういったものは他の宗派の学者によるものなので私はあまり重要だと思っていなかったし、他の仲間たち同様、ためらいや疑いも感じた。・・・・・・
ところが、こういう注釈書の数々を見れば見るほど、聖書が神の霊感によるものだという堅い信念が読み取れることが多く、心を深く打たれるばかりだったのである。18世紀の注釈書でも、書いてあることは極めて値打ちのあることであり、また正確でもあることを見るにつけ、その印象はなおさらだった。何年も経たないうちに「無効」になり、もう出されなくなってしまう自分たちの出版物と比べずにはおれなかった。・・・・・・
どの聖句の意味を考える時でも文脈がいかに重要かがそれまで以上に分かってきたし、またこの聖書辞典作成にあたっていた仲間もそう感じていたようだった。我々はまた、聖書に出てくる言葉の理解にあたっては、ただ単に既存の見方を取り入れたり、国語辞典にとらわれたりせず、ただ聖書そのものに意味を決めさせることの必要性にも気がついた。ベテルの図書室にあるヘブライ語およびギリシャ語辞典、そして英語の訳語ではなく原語に準拠した聖書索引をそれまで以上によく使うようになった。・・・・・・常に文脈に沿い、聖書そのものに聖句の意味を決めさせる必要を素直に認めたのである。ベテルの図書室にある百年も二百年も前の注釈書がなぜ時を経ても値打ちを失わないのかも理解できた。きっちり原文に沿っていく取り組み方をすれば、文脈の意味から離れたり、原文とはかけ離れた視野の狭い解釈をしたりはできないのである。
-「良心の危機」 P.29-31。

良心の危機―「エホバの証人」組織中枢での葛藤/レイモンド・フランズ
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信頼できる聖書解釈はどちらでしょうか。
多くの聖書学者の目に触れてきた注釈書ですか。それとも、「通説」に基づいて書かれたエホバの証人の出版物でしょうか。
エホバの証人がとらわれている「通説」の最たるものが、「エルサレム陥落は西暦前607年だった」というものです。
この西暦前607年を起点とした年代計算により算出される1914年に「終わりの時」が始まった、というのがエホバの証人にとって重要な教理です。
しかし、どの歴史文献を当たっても、エルサレム陥落は西暦前607年ではなく、それより20年前の西暦前587年なのです。
以下の記事をご参照ください。
「エルサレム陥落」 (JWのあとさき
http://blogs.yahoo.co.jp/ageratamu_san/17944120.html
『異邦人の時再考』 - 要旨と抄訳
http://www.jwic.info/gentim_x.htm
1914。ものみの塔の自爆。 (良心の鬼気-必要で入った背教開拓者の葛藤-
http://tokkenn.exblog.jp/8076878/


神戸JW研究会 - 新約聖書と神のみ名

今日、勉強した内容です。
以下はいずれも、ものみの塔協会の出版物からの引用です。


「聖書から論じる」 P.267-268 「聖書」の項
聖書の内容が変わっていないということをどうして確信できますか
「記述の正確さを立証する古代写本の数,また原本が書かれてからそれら正確さを立証している写本が作られるまでに経過した年数という点で,聖書は古典文書[ホメロス,プラトンその他の人々の著作]を決定的に凌駕している。……聖書の場合と比べると,総じて,古典文書の写本はごくわずかである。古代の文書で,聖書ほど写本上の正確さが立証されているものはない」―「聖書―そのはじまりから」(ニューヨーク,1929年),P・マリオン・シムズ,74,76ページ,英文。
1971年に発表された,ある報告によれば,ヘブライ語聖書の全部,もしくは一部の手書き写本は多分,6,000点ほどあり,そのうち最古の写本の年代は西暦前3世紀までさかのぼります。クリスチャン・ギリシャ語聖書について言えば,ギリシャ語の写本はおよそ5,000点ほどあって,その中の最古の写本の年代は西暦2世紀初頭にまでさかのぼります。また,ほかの言語に翻訳された初期の訳本も多数あります。
フレデリック・ケニヨン卿は,自分の編さんした,「チェスター・ビーティー聖書パピルス写本」,全7巻の序文に次のように書きました。「これら[パピルス写本]の調査から得られた最初の,かつ最も重要な結論は,現存する本文が基本的に確実なものであることをそれらが確証しているという,満足のゆくものである。旧約および新約のいずれにおいても,衝撃的もしくは根本的な異読は認められない。重要な意味を持つ語句の削除や挿入はなく,大切な事実や教理に影響を及ぼす異読もない。本文の異読は,語順や細かな言葉遣いといった小さな点に影響を及ぼしている。……しかし,それらの持つ基本的に重要な価値は,これまで利用できた写本よりそれらが古いという事実によって,現存する本文の忠実性を確証していることにある」―(ロンドン,1933年),15ページ。
一部の聖書翻訳が,他のものより,原語で書かれた本文に,より厳密に従っているのは事実です。意訳を中心とする現代の聖書は,時によると原文の意味を変えることさえ行なってきました。中には,自分の信条を訳文に反映させた翻訳者もいました。しかし,このような好ましくない点は様々な聖書翻訳を比較することによって識別できます


「神のみ名」のブロシュアー P.26,27より

み名を復元すべきか

現存する写本にみ名が含まれていないという事実を考慮すると,翻訳者にはみ名を復元する権利があると言えるでしょうか。そうする権利があると言えます。ほとんどのギリシャ語辞典は,聖書中の「主」という語が多くの場合にエホバを指すことを認めています。例えば,ロビンソンの新約聖書希英辞典(A?Greek?and?English?Lexicon?of?the?New?Testament,1859年に印刷)はギリシャ語キュリオス(「主」)の項のもとでその意味を次のように説明しています。「至上者なる主また宇宙の主権者としての神。セプトゥアギンタ[訳]では普通,ヘブライ語????,エホバを表わす」。ですから,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがそれ以前のヘブライ語聖書から引用している箇所では,ヘブライ語原文に神のみ名の出ている部分のキュリオスという語を「エホバ」と訳す権利が翻訳者にはあります
 (中略)
正当な権威のもとに神のみ名を大胆に復元している翻訳の一つはクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳です。日本語を初め,現代の11の言語で現在入手できるこの訳は,ヘブライ語聖書中の神のみ名を含む句がギリシャ語聖書に引用されているすべての箇所で神のみ名を復元しています。ギリシャ語聖書のこの翻訳では,確かな根拠に基づいて合計237回み名が出てきます。

み名に対する反対

聖書中に神のみ名を復元しようとする多くの翻訳者の努力にもかかわらず,み名を消し去ろうとする宗教的圧力も常に存在してきました。ユダヤ人は,み名を聖書にとどめてはいましたが,それを発音しようとしませんでした。西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。


さて。
「聖書の内容が変わっていないこと」は、エホバの証人の聖書研究においても初期の段階で学びますよね。
「論じる」の本によれば、新約聖書は現存する5000点ほどの写本(最古のものは西暦2世紀初頭、つまり新約聖書が書き終えられた数十年後にさかのぼる)によって本文の忠実性が確証されている、とあります。
フレデリック・ケニヨン卿の言葉が引用されていますが、「重要な意味を持つ語句の削除や挿入はない」とあります。
ところが、「み名」のブロシュアーによれば「西暦2、3世紀の背教したクリスチャンたちが写本の写しからみ名を取り除いた」とあります。
「論じる」の記述と矛盾しますよね。「神のみ名」という「重要な意味を持つ語句の削除」はあったのでしょうか、なかったのでしょうか。
そもそも、「み名が取り除かれた」との記述は、その直前と比較しても矛盾しています。
現存する写本にみ名が含まれていないという事実」を認めているのです。
では、み名はどこから取り除かれたのでしょうか。いいえ、最初からみ名は含まれていないのです。
「み名」のブロシュアーでは、「キュリオスという語を「エホバ」と訳す権利が翻訳者にはあります」と主張していますが、その根拠は何でしょうか。
その権利の裏付けとして引用されているのが、19世紀後半に書かれた希英辞典です。
しかし、み名という「重要な意味を持つ語句の挿入」を認める権威を、写本の比較によってではなく、後世の人間が書いた辞典に求めるのはおかしくないでしょうか?
もともと、み名が含まれていない新約聖書に「エホバ」という語句を237回も挿入するのは、「論じる」にあるとおり「自分の信条を訳文に反映」させていることにならないでしょうか。
実際、様々な聖書翻訳を比較するなら、「エホバ」という語句を挿入している点で新世界訳聖書は「好ましくない点」があることが明らかになっています。
ということは、以下の聖句は新世界訳の翻訳者たちに当てはまるのではないでしょうか。
「わたしは,すべてこの巻き物の預言の言葉を聞く者に証しする。これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。」-啓示22:18。
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エホバの証人の出版物を比較してみると矛盾が出てくる、という一例ですね。
しかも、意図的に「エホバ」を付け足していることが明らかになることによって、「エホバの証人こそが聖書に忠実である」という主張が崩れてきますね。


元恋人との死別

以前の記事 – 僕のJW歴 (3) で、中学時代の彼女について書いていましたが、じつはその続きがあります。
高校時代(たしか2年の秋だったと思うんですが)、その彼女から突然、電話がかかってきました。
音沙汰がなくなってからすでに2年ほど経っており、僕はただあっけにとられていたのですが、彼女が「会いたい」というので、彼女と会う約束をしました。
京阪 出町柳駅前で彼女と待ち合わせ、一緒に鴨川を歩きました。
どんな話をしたのかもよく覚えていないのですが、彼女は「もうすぐ手術を受けるんだ」と言っていました。
大人になった今では、わざわざ元彼を呼び出して打ち明けるくらいなんだから、その手術が命にかかわるくらいのものであることが想像できるというものですが、まだまだお子ちゃまだった僕にはそんな洞察力など全くなく、「ふぅ~ん、そうなんだ」と受け流しちゃいました。
僕のJW歴 (4) に書いていたように、高校に入ってからようやく「異性」というものを意識しはじめていた僕には、中学時代の彼女はあまり異性として意識していなかったせいもあるかもしれません。
これから大手術を受けようとしている彼女がどれほど切迫した状況にあるか、その当時の僕には知るよしもありませんでした・・・。
それから4年ほど経過して、僕が必要の大きな会衆に移り、ひとり暮らしを始めたものの、うつになって倒れてしまった後のことです。
中学時代の担任から突然、電話がかかってきました。
彼女が亡くなったとの知らせでした。。。
僕は「エホバの証人なので通夜・葬儀に参列できないので」と、通夜の前日に、彼女の遺体と対面させてもらいました。
初めて、彼女の額に触れました。
とても冷たかったです・・・。
彼女が生きているうちに、なぜ彼女を抱きしめてあげなかったんだろう、
キスしてあげなかったんだろう、
彼女のすべてを受け止めてあげられなかったんだろう・・・と、後悔の念がこみあげて仕方ありませんでした。
その後、担任の先生から聞かされたのですが、彼女は生まれつき脳に腫瘍があり、すでに片眼を失っていたのでした。
その腫瘍が進行していき、高校の時に大手術を受けて肥大化した腫瘍を切除しなければいけなくなったのでした。
手術は成功し、彼女は東京の音楽大学に入学したそうです。
しかし、その後も腫瘍は再発し、ついに彼女は失明してしまい、病状が悪化するにつれてひとりで歩くこともできなくなったのでした。
それでも彼女は友達に支えてもらいながら大学に通いつづけたそうです。
彼女は亡くなるまで、自分の夢をあきらめず、ひたすら前を向いて走り続け、20年の人生を完全燃焼させました。
彼女の死は、僕にとって大きな衝撃でした。
人生について、今を生きる意味について、考えさせられました。
当時まだうつだった僕は、生きる気力を失いつつありましたが、彼女が僕を励ましてくれているように思いました。
彼女の分まで僕が生きなくては・・・、
彼女を愛してあげられなかった分、将来伴侶となる人を愛してあげなくては・・・
と思いました。
「世界の中心で愛を叫ぶ」とか「恋空」とか、映画を見ると僕は彼女のことを思い出します。
映画のような甘酸っぱい思い出は、僕と彼女の間にはほとんどありません。
僕がエホバの証人でなければ、もっとたくさんの思い出を作れていたのではないかと思います。
僕から若いJW2世にアドバイスするとすれば、「若いうちに存分に恋愛せよ!」と声を大にして言いたいですね。(^^;


神権家族

お父さんが未信者のご家庭からしたら羨望の的かもしれませんが、神権家族には神権家族なりの悩みがあるわけで・・・。
神権家族の場合、父の役割はあまりにも多いのです。
家族と一緒に研究、奉仕・・・
会衆の仕事もあるし、長老だと牧羊訪問に出かけたりもするし(時には夜中に呼び出されることも)。
家族を養わなければいけないのに、最低限の時間しか働かないので、まともな給料を稼げません。
しかも、会衆の仕事や牧羊に追われていると「家庭がおろそかになってる!」と妻から不満を言われ・・・
父も大変だったろうと思いますが、子供ながらに「長老の子供なのに、あまり顧みてもらってない」と思ってました。。。
収入が少ないので、子供が独り立ちするときにも援助する余裕などありません。
同年代の若者で、親に援助してもらいながら開拓をしている人たちをみていると、正直言ってうらやましいと思いました。
男はまずは稼がなくちゃ・・・との思いから、マイホームパパにはなれそうもないJoelでした。


割り当てとか講演とか・・・

最近、エホバの証人だったころの記憶がどんどん薄れてきてるなぁ・・・と感じているJoelです。
自然消滅する直前、「即席の話」をしたことがあります。
神権宣教学校の冒頭、監督が「今日、第二の話をされる予定だった兄弟が急遽お休みされました。どなたか代理で話をしていただけますか」と呼びかけたので、つい手を挙げちゃいました。
ノートPCに入れてたWatchtower Libraryで資料を検索して、即席で話を作りました。
どんな話をしたのかも、さっぱり覚えていませんが・・・
演壇に立ったのは、その時がたぶん最後だったと思います。
家から家に伝道するのは苦手でしたが、演壇に立って割り当てをするのは苦じゃないほうでした。
5分(第二・第四の話)から15分(第一の話)、そして45分(公開講演)。
時間が長いほうが、話の流れを自分なりに考えられるのでおもしろいと思っていました。
でも、今から考えると、聖書から話していたのではなく、エホバの証人の出版物に頼って話してたんだろうなぁ・・・と思います。


バプテスマから19年

ふと思い出しました。
1990年1月20日。
19年前の今日、水口の大会ホールでバプテスマを受けました。
当時、20年後の自分なんて想像できませんでした。
きっと楽園が来ているだろうと思ってましたから…
教会で改めて洗礼を受けたほうがいいのかな。
いつになるか分かりませんが…
楽園が来なくても、今は幸せです。
主の恵みに日々感謝です。

阪神大震災

あれから14年・・・。
当時、僕は高校2年生でした。
実家あたりは、たしか震度4だったんですが、今までにない激しい揺れで、とても怖かったです。
学校には行ったものの、休校になって帰りました。
TVで続々と報じられる甚大な被害に、呆然となりました。
ちょうど半年前、徳島の会衆で訪問講演があって家族で出かけた時、阪神高速神戸線を通ったんです。
その高速道路の高架が延々となぎ倒されている光景は、とてもショッキングでした。
数日後、支援物資運搬・仕分けのボランティアに出かけたのを覚えています。
今まで生きてきた中で、たいへん衝撃を受けた出来事はいくつかありますが、
大きな災害で自分も経験したことがあるのは阪神大震災くらいですね。。。
じつは、震災の翌月、祖母が亡くなりました。
何年も闘病していたので、やっと楽になれてよかっただろうとは思いましたが、やはり悲しかったです。
その後、地下鉄サリン事件(3/20)があったんですよね。
1995年は衝撃的な出来事がいくつも起こった年でした。


派遣村

香山リカのココロの万華鏡:「年越し派遣村」の教訓
http://mainichi.jp/life/today/news/20090114ddlk13070748000c.html

突然の「派遣切り」にあい、住まいまで失ってしまった人の多くは、自尊心がズタズタに傷つき、「ファイトや根性」で奮い立つエネルギーも失ってしまっている、ということだ。
 派遣村に集まった人たちのインタビューを聞いていると、もしかするとすでにうつ病の状態になっているのでは、と思われる人も何人かいた。
 こうなってしまうと、たとえ目の前で働き口の情報を見せても、「やります」と手をあげることさえできないだろう。
 派遣村は、「私なんて生きていても価値がない」というところまで自己肯定感を失った労働者に「こうなっているのはあなたのせいではない」「困難に直面しているのはあなただけではない」と伝え、彼らに傷ついた心の羽をとりあえず休める居場所を提供する、という大きな役割を果たしたのだ。
 「私にもまだできることがあるんだ」と最低限の自信を回復して、はじめて「ファイトや根性」を持つこともできるようになるのだ。
 まず、最低限の生活と医療、そして人とのつながりが保証されなければ、立ち上がろうという気力、職探しの気力も失われてしまう。

僕が教会に足を運ぶようになったのも、似たような理由です。
これまで書いてきたとおり、病に倒れ、職を失い、模範的JWとしてのプライドも将来像も失いました。
うつは長い長いトンネルのようで、いつまでたっても抜け出せないんじゃないだろうかと不安を抱えていました。
それに加えて、家庭は崩壊し、多額の負債を背負い、あまりにも多くのストレスがかかりました。
なんとか自分を奮い立たせようとしても、自分の中のエネルギーが底をついてしまい、他からエネルギーを分けてもらわないとやっていけない状態でした。
組織宗教に対する不信感はもちろんありますが、誰かに話を聞いてほしい、そばにいてほしい、一緒に聖書を開き、励ましのことばをかけてほしい、という気持ちに駆られました。
教会に行き、牧師さんと話をし、久しく感じていなかった心の安らぎが得られました。
神は、これまでの自分の歩みを見守っていてくださり、ちゃんと導いてくださっていたんだ、決して僕をお見捨てにはならなかったんだ、僕に対しても恵みを注いでくださっていたんだ、という確信を新たにすることができました。
エホバの証人から離れた人の中には、自尊心を保ち、自分の哲学と倫理観を確立し、宗教に頼る必要を感じない人ももちろんいると思います。
でも、中には僕と同じように、心細さを感じていたり、不安を抱いている人もいると思うんです。
そんな人はぜひ、いちど教会に行ってみることをお勧めします。
中には、あまり話を聞いてくれなさそうな牧師さんもいるかもしれません。それなら別の教会に行けばいいんです。
どの教会に行かなければいけないなんてありません。
どの教会にも、神と聖書を信じ、神の恵みに感謝している仲間たちがいます。
きっと神がふさわしいところに導いてくださるはずです。


僕のJW歴 (7)

既にこの頃には完全な不活発者になっていたので、もはやJW歴とは呼べなくなってきているのですが・・・(^^;
2年ほど大阪勤務していたのですが、途中で合弁会社に転籍させられたり、合弁が解消になったりしたあげく、結局は会社を辞めざるを得なくなりました。
そのころには実家に戻っていたので、実家から近い会社を探したところ、たまたま高校時代の同級生が働いている会社が求人を出していたので、そこに入りました。
同級生はカッティングの仕事をしていて、当初はその仕事を手伝っていたのですが、途中から総務・経理部門のほうを手伝ってほしいといわれ、異動しました。おまけに、若干25歳にして主任にしてもらいました。
従業員百数十人の給与計算から資金移動、銀行・職安・労基・社保事務所などを回っての手続きと、目が回るような忙しさでした。
ほんとうは淡々とルーチンワークをこなしていればよかったんでしょうけど、このころには仕事に没頭するようになり、朝から晩まで、時には泊まり込みで仕事するようになっていました。
そのうち、あまりの忙しさと仕事の重圧に、精神・身体共に限界が来てしまいました。
そんなころ、大阪の会社の元上司から年賀状が届きました。
「今の職場でこのまま事務仕事を続けていくより、IT企業に戻って、改めて経験を積みたい」と思い、元上司に連絡を取ったところ「ぜひ戻ってきてくれ」と言われ、大阪の会社に再入社しました。
こんどは「残業もします」と宣言しました。(^^:
こうして、IT企業の正社員としてようやく身を固めることができました。
さて、僕が大阪の会社に出戻る直前、過労でフラフラになっていたころ、父のほうもいよいよ限界に来ていたようで、ついにJWから断絶してしまいます。
もっと衝撃だったのは、母とも離婚し、家を出ていってしまったことです。
当時、僕のほかに二人、弟がいました。
僕は既に成人しており、上の弟も高校卒業目前だったとはいえ、下の弟はまだ小学校入学前だったので、父が家族を捨てて家を出て行くというのが、僕には全く理解できませんでした。
つい最近になって知ることになるのですが、離婚を切り出したのは今もJWである母だったらしいのです。
それで限界まで追い詰められてしまった父は、すべてを捨てざるを得ないと考えたらしいです。。。
とはいえ、父が出ていってしまったせいで、残された僕が母と弟の家計も支えることになってしまいました・・・


僕のJW歴 (6)

重荷になっていた父のもとを離れ、必要の大きな会衆でひとり暮らし。
希望にあふれていましたが、準備不足も否めませんでした。
仕事は、同じ会社の営業所が引越先にもあったので、引き続き新聞配達をすることに。
ただ、想定外だったのは、自転車に乗って配達するということでした。
それまではカブに乗って配ってましたから。
カブの力を借りれば、百数十部を荷台に積み上げても走れましたが、自転車ではとても無理・・・。
しかも、担当エリアが急な登り坂を含む地域で、一気に体力を消耗。
まもなく、朝がまったく起きれなくなってしまいました。
体力的にも精神的にも限界にきていたようです。
そのまま寝込んでしまい、一日中起きれなくなってしまいました。
母に連れられて精神科に受診し、軽症うつと診断されました。
職を失い、開拓も下りました。
思わぬ挫折に、目の前が真っ暗になった気分でした。。。
体力仕事に限界を感じ、手に職をつけなくてはと思いました。
再び会計事務所で働けないかと探しましたが、面接に落ちつづけました。
じつは、高校卒業後も簿記1級に何度か挑戦していたのですが、受からず、
結局2級どまりでした。
そこで発想を転換し、「せっかく2種を持ってるんだから、コンピュータ関係の仕事を
探そう」と思い立ちました。
職安で、近隣の公共機関でのPCサポートという仕事を見つけ、応募しました。
面接を受けに行ったのは、大阪・梅田の本社でした。
無事採用が決まったのですが、その後まもなく思わぬ連絡が来ました。
「公共機関の仕事、入札に落ちちゃったから、なくなっちゃった」
そんなのあり!?呆然となりました・・・。
そのまま自宅待機させられることになってしまい、どうしようと途方に暮れていましたが、
数日後、再び連絡が来て「梅田の本社で働かないか」と言われました。
京都の自宅から1時間近くの通勤時間でしたが、せっかく仕事が見つかったからと、
梅田へ通いはじめました。
結局、そのまま2年近く、梅田まで通いつづけることになるのですが・・・。
ちなみに、面接のとき、自分がエホバの証人であること、集会のある日は残業できないことを
伝えていました。
(そのおかげで、なかなか仕事が回ってこなかったことに、後に気づくわけですが)
ただ、うつのせいで朝起きて会社に向かうのも一苦労という状態で、集会に交わることに
苦痛を感じるようになります。
必要の大きな会衆で、本来は自分が会衆に仕えなければいけないのに、いまや自分が
「必要の大きな人」になってしまったわけですから・・・。
結局、実家に戻ってきましたが、また驚きの展開が。
僕の家族が、いつのまにか隣の会衆に移っていたのです。
僕がまだ実家にいた当時に、分会(会衆の分割)があったのですが、片方の区域には
長老がひとりも住んでおらず、父もベテラン長老も、ふたりとも越境していたのです。
ところが、前の記事に書いていたとおり、父がベテラン長老と深刻な対立をしてしまい、
「越境を解消して地元に戻る!」と言い出したのです。
ということで、僕の家族は地元の会衆(僕にとっては、元いた会衆の隣の会衆)に
交わることになりました。
会衆を移る際、長老職が自動的に付いて回るわけではありません。
元いた会衆の長老団からの推薦状が必要なのです。
ところが、ベテラン長老はどうもその推薦状を書かなかったらしく、父は地元の会衆で
長老ではなく、ただの一兄弟になってしまいました。
このころから、父は組織に対する不信感を深め、集会にも行かなくなってしまいます。
一方、僕はうつで他人と接触するのに疲れ、しかも慣れ親しんでいた元いた会衆ではなく
地元とはいえ、あまり面識ない人ばかりの会衆に交わることになり、集会への足が
遠のいていきます。
(父のこともあったのですが、当時の僕は自分のことで精一杯で、父のことをあまり深く
考えるだけの気力はありませんでした・・・)


僕のJW歴 (5)

いろいろありましたが、商業高校をなんとか卒業しました。
高校時代の思い出はいろいろあるのですが、今の自分と特に関係あるのが
情報実習室に置いてあったWindows PCとの出会いでした。
僕が入った学科のカリキュラムでは、情報処理の授業は2年と3年に週2時間。
DOSでCOBOLをちょこちょこいじっておしまいという、なんとも時代遅れな内容でした。
僕が最初に学校のPCを触ったのは、販売実習1年目のときでした。
売り子に立つのが嫌だった僕はバックヤード(経理)を選択。
「電卓で手計算なんてありえへん!パソコンで計算できるやろ」と思った僕は、
情報実習室のPCに入ってるLotus 1-2-3で売り上げ集計をやりました。
ワープロ専用機の表計算機能しか知らなかったので、もちろん独学です。
2年目の販売実習も、やはり経理に。
「串刺し演算がやりたい!」と言うと「Excelならできるで」と教えてもらい、
普通は情報処理科の生徒しか使わないWindowsの実習室に入りました。
その後、放課後はWindows・Excelのお勉強に夢中になりました(w
当時、父が会衆で会計の仕事をしており、宗教法人会計のためにB/Sを
作らないといけないということで、Excelで月次計算表を作りました。
その後しばらくして、父と一緒に日本橋へ行き、中古PCを買いました。
Panasonicの一体型PC WOODYが69,800円でした。
それから僕はどんどんPCにのめりこんでいき、現在に至るわけです。。。(w
さて、話を戻します。
卒業と同時に、既定路線通り、正規開拓者になりました。
中学の時も、高校の時も、先生方には「大学に進学しないのか」と度々勧めていただいていたのですが
「宣教者になる」という夢に向かって一直線だった僕の耳には全然届きませんでした。。。
後に、就職活動で壁にぶつかって初めて、学歴というものの大きさに気づいたわけですが。
仕事のほうは、パートで会計事務所へ(週3日)。
JWで鍛えた度胸を生かし、近隣の会計事務所十数件へ飛び込み(^^;
小さな事務所で、のんびり仕事できる環境だったのですが、
なぜか仕事に対する欲が出てきちゃいました(^^;
当時、事務所にあったのは百数十万もするという専用機(オフコン)。
専用OS+専用ソフトだからという理由で、PCよりはるかに劣るスペックのマシンが
こんな高い値段で売られているのか!?と思いました。
(今だから分かることですが、まだ当時(1996年)はWindowsも発展途上で、
会計ソフトなど業務ソフトのWindows化はまだまだ進んでなかったんですよね・・・)
で、ご高齢の所長さんにPC導入を主張するのですが、まったく理解してもらえず、
「こりゃ話にならんわ」と思った僕は、たった1年で会計事務所を辞めちゃいます(^^;;
その後、新聞配達をしながら、車の免許を取りました。
奉仕の僕に任命されたのも、このころだったと思います。
当時は同じ会衆に若い兄弟たちがたくさんいて、たしか奉仕の僕が7,8人いたような・・・
ただ、長老の息子ということで他の若い兄弟からマークされていたのはあるかもしれません。
当時、会衆内に長老はふたりだけ。
もうひとりの長老は超ベテランの兄弟で、巡回大会でも毎回話をするような人でした。
それだけに、昔から目をかけてきた若い兄弟たちには少々甘いところがありました。
そこを鋭く突っ込んでいったのが我が父。
長老間の関係がややこしくなっていき、長老の息子である僕は非常に居心地が悪くなりました・・・
もともと義に過ぎる傾向があり、家族に対しても自分の考えを押しつける傾向のあった父に対して
反発を感じていた僕は、必要の大きな会衆へ移ろうと決心します。
移った会衆は、中学まで僕が在籍していた会衆の、隣の会衆。
いわばふるさとに戻った格好でした。


僕のJW歴 (3)

小6でバプテスマを受けた僕。
中学校に入ってから、そんな僕に転機がやってきます。
担任の先生は20代前半のまだ若い先生だったのですが、僕のことを評価してくれました。
先生に背中を押される形で、僕もクラス内で積極的に発言するようになりました。
小学校時代はいじめられっ子で「自分はだれからも理解されない、自分は孤独だ」と思って
いましたが、自分を理解してくれる人がいわゆる「この世」の中に現れたということで、
自分の「この世」に対する見方が少し変わったような気がします。
もうひとつの転機、それは初恋でした。
バレンタインの日、机の中にチョコレートが入っていたのです。
その子は、クラスでも1,2を争うくらい頭が良く、習字もやっていて字がきれいで、
歌も絵もうまい、とても多才な子でした。ヴァイオリンを習っているとのことでした。
容貌はちょっと変わっていましたが。びん底のような太いめがねをかけ、片方の目は
寄っていました。(後にそれが義眼だったと知るのですが・・・)
運動もとても苦手でした。
でも、僕は彼女に惹かれました。
そのうち、僕は彼女とお互いの気持ちを確かめ合い、つきあい始めました。
つきあうといっても、手をつなぐこともなく、彼女を家まで送るくらいなものでしたが・・・
僕にとって大きな葛藤が生じます。
JWとして、JWでない女の子との交際は許されていません。
僕は彼女に、なんとか聖書を勉強させようとしました。
結局、彼女は僕の求めには応じませんでした。。。
その後、僕と彼女との関係は突然、終わりを迎えます。
僕が引っ越すことになり、転校してしまったのです。。。


あけましておめでとうございます

昨夜は深夜まで仕事で、くたびれて寝てしまいましたが、なぜかこんな時間に目が覚めてしまいました…(^^ゞ
というわけで、あらためて A Happy New Year !! プレゼント
今年もよろしくお願いいたします。
…と、新年を祝うことを禁じられてきた20数年…
正月は複雑な気分でしたね。
晴れがましいような、でも祝っちゃいけないから奥歯にモノがはさまったような挨拶しかできなかったり…
今はわだかまりなく、素直な気持ちで、会う人と共に新しい年の門出を祝い、挨拶できることが嬉しいです。